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『火垂るの墓』ではカニバリズムの怖いシーンがある?実は続きがあったと言われている理由やラストシーンの清太のカメラ目線の理由についても考察解説!

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1988年4月16日公開の映画『火垂るの墓』。

野坂昭如の自身の戦争体験をもとに書かれた原作小説をもとに高畑勲が監督を務めました。

宮崎駿監督作品の『となりのトトロ』と同時上映となった今作ですが、興行収入は5.9億円と伸び悩む結果となりました。

『火垂るの墓』の口コミ評判レビューには、

  • 戦時中の生活を知れるアニメ映画
  • 本当に悲しいストーリー
  • 涙なしでは観ることができない作品
  • 当時の戦争の怖さや苦しみが伝わってきた
  • 悲しいラストで、ただ泣いてしまった
  • 初めて見たときは惨く衝撃的な作品だった
  • 戦争の悲惨さをリアルに感じれる映画
  • 1人でも多くの人に見てもらいたい作品

という声が多数集まっています。

この順番でチェック
  • 『火垂るの墓』の考察解説|カニバリズムの怖いシーンや清太がカメラ目線の理由ついて
  • 『火垂るの墓』には、実は続きがあった?
  • 『火垂るの墓』のあらすじ
  • 『火垂るの墓』の感想評価とみんなの口コミ評判レビュー(※ネタバレ有)

もし、まだあなたが一度も「火垂るの墓」を観ていないなら、まずはネタバレとあらすじ・感想評判の前に作品を観ておくことをおすすめします。

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火垂るの墓の考察解説|カニバリズムの怖いシーンや清太がカメラ目線の理由ついて

清太が節子の骨を食べる怖いシーンが?カニバリズムの都市伝説について考察解説

『火垂るの墓』には清太が節子の骨を食べるシーンがあった、との都市伝説があります。

ただでさえ正視するのが忍びない本作に、そのようなシーンがあればなおのことトラウマレベルの衝撃ですが、果たして本当なのでしょうか?

まず、都市伝説によるとカニバリズムのシーンは、清太が節子を火葬にした後に骨をドロップ缶に入れ、それを清太が口にしていたということになっています。

そうなると物語の終盤、ラストシーンの手前部分になるでしょう。

そこで実際に本編を観てみますと、清太が節子を荼毘に付すところでは、亡霊の清太の独白によって、焼け残った宝石のような節子の骨をドロップ缶に入れると、二度と防空壕へは戻らなかったことが語られます。

そして次のシーンで舞台は変わり、亡霊となった清太と節子が寄り添い、現代の神戸の街を見下ろして、映画は幕を閉じます。

ここまでに、清太がドロップ缶から何かを食べる描写はありませんでした。

では、節子の骨が入ったドロップ缶が最初に登場する冒頭の部分はどうでしょうか?

物語の序盤で清太は命尽き、清太の持っていたドロップ缶が駅員によって捨てられると、その中から骨がこぼれ落ち、節子が霊となって登場します。

その後、霊である清太がドロップ缶を拾うと、それはこの世ならざる存在となり、思い出の中の綺麗な缶へと姿を変えます。

そのため、直後に2人がドロップを缶から取り出し口にするシーンがあるのですが、それは決して骨などではなく、かつてのあの甘美なドロップそのものでした。

このように、本作において都市伝説の語るようなシーンは確認できませんでした。

管理人

ですが、実はカニバリズムに近い描写が1ヶ所あります。

先ほどの節子の火葬のシーンで、清太は熾火(おきび)を前にして何かを食べていました。

それは茶色がかった丸いものなのですが、画像からはそれが何であるのか不明です。

もしかしたら、その姿が節子の骨を食べているように見えたのかもしれません。

しかし、それは恐らくジャガイモか何かの携行食であり、その前のシーンで清太が悲しみの底にありながらお粥もスイカも平らげてしまったように、人間の業を感じさせる描写なのだと思われます。

また、当然のことながら原作小説にも骨を食べる描写などはなく、映画においてもその必然性は乏しいと言えましょう。

ただし、日本の一部の地域では、亡くなった人の骨を近親者が食べる「骨噛み」という風習が近年まで存在しました

本作の舞台である神戸市については不明ですが、兵庫県も該当地域の一つです。

「骨噛み」と聞くと野蛮で怖いという偏見を持ってしまいがちですが、これは故人に対する哀悼の気持ちを表明するものであり、愛するが故にその骨を口にして自身と一体化させたい、という感情は理解できなくもありません。

この一風変わった葬送儀礼の存在が、清太の食事シーンと合わさって都市伝説が誕生したとも考えられます。

もっとも、もし仮に本作でそのような意味での「骨噛み」の描写があったとしても、思ったほど違和感はないのかもしれません。

そこには間違いなく節子への惜別と愛情が見てとれるであろうし、本作の価値が揺らぐこともないはずです。

冒頭とラストシーンの清太がカメラ目線の理由を考察解説

本作のオープニングはまるでこちら(観客)を見据えるような清太の顔のアップで始まりました。

そして清太の視線は次に、駅構内に横たわり死を待つばかりのもう1人の自分に注がれます。

開口一番に自らの死を告げることから、この制服姿で赤い色をした清太はすでに亡霊となっていることが分かります。

その後、ラストシーンでもまた清太の霊は少しの間、カメラ目線のように画面の正面を見つめます。

次に清太は傍らの節子に「もう遅いからお休み」と声をかけ、寝かしつけます。

節子を膝に乗せ、清太が見つめる先には高層ビルが建ち並ぶ現代の神戸の街がありました。

このように最初と最後に清太がこちらを見つめるということは、当然何らかの意図があってのことでしょう。

では、そこにはどのような意味がこめられているのでしょうか?

管理人

まず考えられるのは、我々現代人に対する問いかけです。

兄妹の亡霊の回想シーンが終わるとそこは現代、ということは2人は亡くなってからずっと成仏せずに、人生最後の数ヶ月の体験を果てしなく繰り返しているということです。高畑監督も語っていますが、こんなに悲しい不幸な存在もありません。

実は原作小説では清太と節子の霊は登場せず、もちろん現代の神戸も描かれることはありませんでした。

ならば、敢えて高畑監督がその描写を追加した理由、さらには2人が成仏できない理由は、我々現代人に対して問いかけをおこないたいからではないかと考えられるのです。

清太の行動について、自分が属するコミュニティと上手く同調できない、という問題は確かに普遍的であり、現代にも通ずるものです。

清太は海軍将校の息子として比較的裕福だった分、現代の若者に近いところがありました。

そんな若者が戦火にさらされ、全体主義の圧政の状況下に置かれたらどうなるか、高畑監督は特に若い観客に他人事ではなく、自分と重ねて考えてもらいたかったそうです。

また、もう一つの問いとして、果たして現代であれば清太と節子のような悲劇は起こりえないか?という点があります。

確かに平時であれば、各種の社会保障制度といったセーフティネットが機能している限り、孤児が放り出されることはありません。

だが、ひとたびそのシステムが機能不全に陥ったらどうなるでしょう?

例えば戦争までいかなくとも未曾有の大災害が起これば、隣近所や地域のコミュニケーションが希薄な現代では、やはり同様の結果になってしまうのではないでしょうか。

相互扶助や協調に人を向かわせる理念が社会に育たないまま、そのような事態を迎えれば、終戦直後よりも人は人に対し狼になってしまう、と高畑監督は本作のパンフレットで危惧しているのです。

それは観客である我々もまた、清太の側にも、それを見捨てる大人たちの側にも成り得るということです。

つまり本作は、清太に落ち度があるとはいえ、間接的に彼らを死に至らしめた大人たちを免罪しているわけでは決してありません。

高畑監督本人が本作を「反戦映画ではない」と断言しているために、戦争はあまり関係なく、周囲とのコミュニケーションの問題ととらえる向きもありますが、本作は明らかに戦争を、全体主義を、大人たちの無責任さを断罪しています。

本作が反戦映画でないというのは、それが主題ではないことと、反戦映画としては力及ばないことを指して言っているのです。

平和な時代である今ですら清太の自己責任論が蔓延しているようでは、有事になれば相互扶助や協調とはほど遠い動物のような弱肉強食の社会が到来することになるでしょう。

清太の視線は現代を生きる我々を見つめ、問いかけ、警告を発しているのです。

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『火垂るの墓』には、実は続きがあった?

悲しいながらも綺麗な終わり方ではあった本作『火垂るの墓』ですが、実は続きがあったと一部では言われています。

それはどういうことなのか調べてみました。

まず、公式には『火垂るの墓』のその後を描いた続編作品というのは映画であれ小説であれ、いかなる媒体でも製作されていません。

同名作品という点では2005年にドラマが、2008年には実写映画が作られていますが、それぞれ野坂昭如氏の原作小説を基にしていますので、続編というわけではなく、あらすじはほぼ同じです。

ただし、ドラマ版は松嶋菜々子演じるおばさんを主役に据え、おばさん側の視点で物語が進むため、彼女の立場ならではの苦悩が分かる意欲作となっています。

管理人

では、続きとされるものとは一体何なのでしょうか?

それはどうやら、原作者である野坂昭如氏が「火垂るの墓」と同時期に発表した小説『アメリカひじき』のことを指しているようです。

『アメリカひじき』のあらすじは、TVCM制作プロダクションを経営する主人公俊夫一家の許にアメリカ人老夫婦が訪ねてくることで、かつての終戦直後のアメリカに対する複雑な感情が蘇ってくるというものです。

タイトルは、米軍から掠めた補給物資の中の紅茶の葉を、アメリカのひじきだと思って食べた惨めなエピソードを表しています。

「火垂るの墓」の清太が少年時代の野坂氏をモデルにしているように、やはり『アメリカひじき』の俊夫は氏の青年~壮年期の体験にもとづいています。

そのため、もし清太がその後を生き延びることが出来たら、というIF設定の物語と解釈できるのです。ちなみに俊夫にも妹がおり、物語上では存命しています。

ある意味では『火垂るの墓』の姉妹編とも言える作品でありましょう。

管理人

1967年には「火垂るの墓」と合わせて第58回直木賞も受賞しています。

作中の俊夫は、信じられるものは自分だけとばかりに戦後の混乱期を生き抜きましたが、現実の野坂氏もまた自身を「焼跡闇市派」と称するように、戦災を原体験とした独特の価値観を持って多方面で活躍をしました。

この『アメリカひじき』を読むと、つい「清太がこのぐらいたくましかったら」と思ってしまいます。

『火垂るの墓』のもう1つの、あったかもしれない物語として読んでみるのも面白いのではないでしょうか?

また、本作の続きについてはもう1つ、都市伝説が存在します。

管理人

それは同じジブリ作品『千と千尋の神隠し』に節子が登場しており、節子は死後ずっと駅で兄の清太を待ち続けているというものです。

その根拠となるのが、『千と千尋の神隠し』において、千尋が銭婆に契約印を返しに行くため電車で移動するシーンです。

電車が沼原駅を通過するところで駅のホームに1人の少女がおり、その姿が節子に似ているのです。

この少女はおかっぱ頭に黄色いトップスとピンクのスカート姿ですが、電車のシーンで出会う人物はすべて半透明のシルエット状態なので、顔などはよく分かりません。ただ、節子が4歳なのに対し、この少女はどう見ても小学です。

年齢の点では無理があるでしょう。

どちらかというと、車窓から一瞬だけ見えた、自動踏切警報機の傍で大人と一緒に電車の通過を待つ幼女の方が節子に近いかもしれません。

この幼女もおかっぱ頭で、ピンクのワンピース姿でした。

もっとも、この少女はもとより半透明の人々について製作側から何の説明もない以上、全て観客の想像に任せるしかないのですが、脈絡なく節子が登場するとは考えにくいでしょう。

それでも、清太と節子は確かに成仏できずに彷徨う存在ではあるし、清太が亡くなった「駅」という場所に節子も留まっている、という発想は共感できます。

また、『千と千尋の神隠し』の電車のシーン自体、現世を離れて常世へと向かう隠喩との解釈もあり、そこになら霊である節子がいても自然と考えられ、都市伝説が生まれたものと思われます。

そういえば電車のシーンで出会うシルエットの人物は皆どことなく悲しげな雰囲気がありましたね。

いずれにせよ、節子も清太も半永久的に一つ所に留まり同じ体験を繰り返しているのであれば、続きというのは考えづらく、それを思うとまたしても涙を誘われてしまいそうです。

『火垂るの墓』のあらすじ

以下、映画「火垂るの墓」のあらすじです。

『火垂るの墓』のあらすじ|神戸大空襲

太平洋戦争終結から間もない昭和20年9月21日、清太は神戸市三の宮駅構内でわずか14歳の生涯を閉じました。

亡霊となった清太は、一足先に逝った妹の節子と一緒に過去を回想します。

時は少し遡り、昭和20年6月。

清太たちの住む神戸はアメリカ軍の大規模な空襲によって壊滅的な被害を受けました。

清太と節子は何とか難を逃れましたが、母は全身に火傷を負って亡くなってしまいます。

しかし、まだ4歳である節子に、清太は母の死を告げることはできませんでした。

こうして家を焼け出され孤児となった兄妹は、西宮市の親戚宅に身を寄せることとなります。

『火垂るの墓』のあらすじ|針の筵の生活

食糧を持参したり、母の着物を米と交換したこともあって、最初こそ親戚のおばさんは2人に親切に接しますが、食糧が減るにつれ、その態度は露骨に悪化していきました。

さらに、清太が学校が無いにも関わらず隣組の活動に参加せず、常に節子と一緒にいることもおばさんは快く思っていません。

兄妹の食事だけ粗末にされたり、事あるごとに嫌味を言われるなか、とうとう2人は母の貯金を切り崩し、親戚宅で自炊をすることになります。

それでもおばさんとの険悪な関係はその後もエスカレートし、清太は親戚宅を出て、空襲の時に逃げ込んだ防空壕で節子と2人だけで暮らすことを決意します。

『火垂るの墓』のあらすじ|2人だけで生きる

何者にも束縛されない兄妹だけの生活。

それは完全なる自由と同時に、どこにも頼る場所がないことを意味します。

隣組に入っていない2人には配給もなく、14歳と4歳だけで生きるには限界がありました。

2人だけの生活は困窮を極め、特に節子は栄養失調から慢性的な湿疹や下痢を併発し、日に日に衰弱していきます。

生きるために、清太は盗みを働くまでになりました。

ある時、ついに節子は倒れ、清太は医者に連れて行くものの、医者は栄養失調が原因と言うばかりで、何もしてくれません。

清太はなけなしの貯金を全て下ろし、節子にお粥とスイカを食べさせようとします。

しかし、節子の体はすでに食物を受け入れられず、スイカを一口だけ含んで寝てしまった節子が目を覚ますことは二度とありませんでした。

残されたたった1人の家族、最後の心の拠り所を失った清太はどうなるのでしょうか?

その続きが気になる方は、実際に映画を観ることをおすすめします。

以上、「火垂るの墓」のあらすじでした。

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『火垂るの墓』の感想評価とみんなの口コミ評判レビュー(※ネタバレ有)

以下、映画「火垂るの墓」の感想評価(ネタバレ・ラスト結末含む)と口コミ評判です。

感想評価(※ネタバレ有)|あまりに儚く美しい砂上の楼閣

終戦を迎えたことで、疎開や避難をしていた人々が各自の家に戻ってきました。2人の住んだ防空壕の対岸にある家からは、喜びと安堵の声が聞こえてきます。

それらの姿とは対照的に、母を亡くし、家を焼かれ、国は敗れ、父の艦隊も沈み、そして今また妹節子を失った清太にはもう何も残っていませんでした。

清太は節子の亡骸に添い寝すると、明くる日、自分の手で節子を火葬します。

僅かに残った節子の骨をドロップ缶に入れ、清太はあてもなく死地の旅へと赴くのでした。

そして時は現代、亡霊となった清太と節子は寄り添い、高層ビルの建ち並ぶ神戸の街を見下ろします。2人を取り囲むように無数の蛍がいつまでも飛んでいました。

主人公清太が自身の死を告げる衝撃的なモノローグから始まる本作は、月並みな表現ですが、正に涙なしには見ることのできない映画です。

管理人

その悲劇性ゆえに「悲惨な物語であることが分かっているので観る意欲が湧かない」「傑作だが二度観ることは出来ない」と評されることも少なくありません。

ですが、どんな気分になろうとも観るべき価値がある、そして観るごとに発見がある映画だと断言できます。

一見したところでは、戦争の持つ非人間性や、清太と節子の兄弟愛及び彼らに待ち受ける悲惨な運命、親戚のおばさんの意地悪な言動などが特に印象に残ることでしょう。

ところが、大人になってから観返すと様々な視点があることに気付きます。

管理人

例えば、以前は悪者としか感じなかったおばさんですが、改めて彼女の立場を考えると、それほど理不尽な言動とも思えません。

食糧のひっ迫するなかで遠い親戚2人を抱え込み、果たして自分たちの少ない食事を快く分け与えることができるでしょうか?

その状況下で、勤労動員に行っている下宿人や娘と、何もせず遊んでいる清太たちの食事に差をつけてしまうのは仕方がないことだと感じます。

最初に本作を観たとき、清太は妹思いのしっかり者の印象があったのですが、観返すと子供ならではのわがままさ、思慮の浅さが分かります。

いくら節子がいるとはいえ、隣組の活動や家事の手伝いをするでもなく家でゴロゴロし、自炊後の食器も洗わない、空襲の際は近隣の火消しもせずにすぐ逃げる、など清太の行動は決してほめられたものではないのです。

おばさんの家を出たのも、我慢するのが嫌で後先考えずに決断してしまった結果であり、後に大人に諭されても決して妥協しませんでした。

しかし、そのように物事を快・不快の基準で判断し、行動してしまう清太の落ち度をこそ、高畑監督は観客に考えさせたかったのではないでしょうか。

管理人

もう少しおばさんの家で耐えることが出来たら、周りに迎合できたら、7000円の貯金を有効に使えていたら、2人の結末は違ったでしょう。

チャンスはあったが、子供ゆえにそれを取りこぼしてしまったのです。

これは現代の子供たちにも共通する部分であり、高畑監督は特に若者に共感性を持って観てもらい、自分ならどうするかを考えてもらいたかったようです。

ただ、その一方で高畑監督は、清太に共感できるのは平和な現代の価値観だからであり、いずれ全体主義がはびこれば、おばさん以上に彼を批判する意見が大勢を占めるであろうことを危惧しています。

そしてその予想通り、個人主義を叩く過剰な自己責任論がまかり通る現在、子供であることや戦時下という大前提を無視し、清太の行動を自業自得とまで言い切る意見が増えてはいないでしょうか?

いずれにしろ忘れてはならないのは、本作『火垂るの墓』の原作は、作者である野坂昭如氏の自伝的小説であり、それは彼が善き兄になれなかったために亡くなった幼き妹への贖罪であるということです。

清太は決して善人でも完璧な人間でもありません。それでも、妹思いの彼の行動、その集大成である2人だけの暮らしの美しさは何にも増して尊いものです。

ゆえに、そんな世界が許されるはずもなく、脆くも崩れ去ってしまう様は言語に絶する悲しさがあります。

本作は確かに悲しい物語です。

間違ってもポップコーン片手に観る映画ではありません。

ですが、観た後に確実に心の中に残り続ける映画です。

楽しいだけが映画の醍醐味ではないはずですし、ぜひとも一度は見てほしい作品です。

『火垂るの墓』のみんなの口コミ評判レビュー

映画『火垂るの墓』の口コミ評判レビューには、このような評判が多い印象です。

「戦争時代当時の人たちの様子がよく伝わる映画」「これほどまでに胸をえぐられ、やるせなくなる映画は見たことがない」「平和の尊さと戦争を理解する良い映画」「見たくなくても見なければならない作品だと思った」

それでは、実際の口コミ評判レビューを詳しく見て行きましょう。

★★★★☆星4

映画『火垂るの墓』を初めて観たのは、小学校低学年の頃でした。

戦争についてよくわからない年頃でしたが、母との死別、いじわるな親戚、節子の死、清太の衰弱、駅員によって投げられたドロップ缶などの描写は、今でも鮮明に覚えています。

幼い私の中で、惨たらしく衝撃的な作品だったのだなと思います。

家族と観たわけですが、母方の祖母は似たような境遇であったようで、事あるごとに「ばあちゃんとその妹は、疎開先のいじわるな親戚の家に、交替で預けられ、妹は逃げ出して東京に戻ってきたけど、ばあちゃんは我慢していた。」という話を聞きました。

映画の中の話、ではなく現実に起きていたことなんだと、幼心に思いました。

戦争体験について、語り部になる方は減ってきているようですが、戦争を知らない世代は増え続けます。

そのような世代の人たちには、戦争が如何に惨たらしいものか知るためにも、一度観てほしい作品だと思います。

30代女性

★★★★★星5

基本的に全てのジブリ映画が大好きで、何度も繰り返して見たいと思うものばかりですが、『火垂るの墓』は、私の中では唯一何度も繰り返しして見ることのできないジブリ映画です。

「戦争」を題材にしており、子どもの頃にみた戦争の映画は『火垂るの墓』が初めてでした。

初めて見た時、戦争の怖さ、人間の儚さに非常に衝撃を受け、子どもながらにかなりトラウマに感じていました。

こんな時代があったなんて信じられませんでした。

戦争の話は、日本人なら必ず学ばなければならない話です。それを子どもでもジブリの映画として学ぶことができるのは素晴らしいし、見たくなくても見なければならない作品だと私は思います。

子どもの頃は、清太と節子を邪険に扱う親戚のおばちゃんの気持ちは全くわかりませんでしたが、大人になった今だとなんとなくおばちゃんがそうしてしまうのもわかる気がします。

みんな必死に一日一日を生きていたんだなと考えさせられます。

結局何も救われない、誰も救われないラストは戦争の悲惨さを物語っており、戦争系の映画としては正しい終わり方だと思います。

20代女性

★★★★★星5

ジブリ映画『火垂るの墓』は直木賞受賞の野坂昭如氏の短編小説をもとにジブリの高畑勲監督が映画化したものでした。

父は戦争に行き、母は神戸大空襲の火傷でなくして両親不在の兄妹がたった二人で生き抜く物語には、戦争の愚かさを感じると同時に人間の孤独さを感じました。

兄妹は叔母を頼ったものの自分の生活が戦争の食糧難で苦しくなるにつれて兄妹に対する風当たりが強くなった場面は、叔母さんが自身の心の余裕がなくなったのと同時に、他人よりも我が家が大切という人間の本性をみたような気がしました。

戦時下では生きることに精一杯になる状況に追いやられ、叔母さんのように人間性を喪失し、この兄妹のように家庭の味を知らない人たちが出るのは必至なので決して戦争など争いごとはすべきでないと思いました。

清太の自分は食べずに節子に食べ物を与えるといった行為には胸が詰まりました。

緊急事態では親戚や友達といった他人はあてにならない、どの時代でも自分自身で生き抜く力を幼い時から教育して身につけておくべきだとも思いました。

平和の尊さと戦争を理解する良い映画だと思いました。

50代女性

★★★★★星5

『火垂るの墓』は、何十年も前からある作品で、現在私は30代ですが、10代の頃から家族みんなで観ていました。

せつことお兄ちゃんの兄弟愛も強く描かれ、何度見ても涙が出てしまうし、胸が苦しくなってしまうので、大人になってからは観るのをあえて避けていました。

店頭に売っているサクマドロップを見るたびに、「お兄ちゃん、お腹ピチピチやねん」というセリフが頭に浮かびます。

食べ物も十分になく、お風呂も毎日は入れない状況を、懸命に生き延びようとする姿がとても胸に残っています。

令和の子たちが観たらどう感じるのか…でも、日本の昔のことを知るのには火垂るの墓は観るのも一つかもしれないなとも思います。

今の時代には考えられないようなことも、過去の現実として、令和になった今、テレビで特別放送などをしてほしい思いもあります。

30代女性

★★★★★星5

『火垂るの墓』は、戦争時代の兄妹を描いた作品です。

描写が細かく、戦争を経験していない若い世代の私たちにとって、何もかもが初めてで、新しいことを知ることができました。本当に辛い状況だったのだなと思うと共に、絶対にこのようなことは繰り返してはいけないと強く思います。

2人が、本当に助け合っている部分に涙したし、戦時中こそ人の本当の心が見えると思いました。悪い人もいるけれど、助け合う人も多い部分に本当に心惹かれました。

最後のシーンは本当に悲しく、結局報われないのかと思い号泣してしまいました。

絶対に繰り返してはいけない戦争を、次世代まで残してくれる本当に大切で重要な作品だと思います。

語り継いでいけたら良いです。

20代女性

★★★★☆星4

私が一生涯で、決して忘れることのできない映画だと思います。

この映画は、映画館で見たわけでもなく、小学生の授業の一環として教室で観ました。その状況も相まって、忘れることができないのかもしれません。

今まで戦争の話を授業やニュースを通してたくさん聞く機会はあったものの、どうしても自分ごととして考えることが難しかったです。遠い昔の話、そう思っていました。

でも、この映画を見て、戦争は実際にあったことで、私たちのような年代の子が巻き込まれてしまったんだなと思い、今私が平和に暮らしていることのありがたさを心から感じました。

私は缶に入ったキャンディを見るたび、この映画を思い出します。

平和ボケしている日本、そして荒れている世界情勢の中で、1人でも多くの人にこの映画を見てもらいたいです。

10代女性

★★★★☆星4

清太と節子という仲の良い兄妹が、戦争を経て最終的には亡くなってしまうというストーリー。

物語の中心はもちろんこの2人ですが、『火垂るの墓』を語る上で外せないのは叔母の存在です。

居候の分際で言うことを聞かない清太達に問題がないとは言えないですが、それを差し引いても叔母の了見の狭さが非常に目立ち不愉快に感じられました。

結局、叔母に追い出されるような形で住居を奪われた2人は満足に配給を得ることもできず、飢えていくことになります。

清太にとっては節子が何よりも大切な存在であったと思われるので、仮に節子が生きていさえすれば、戦争が終わった後も2人はどうにか生きていけたのかもしれないと思いました。

空襲の場面もあるが全体を通してあまり戦争を感じさせる場面は多くなく、戦争によって亡くなったと言うよりは周囲の人間関係に恵まれずに亡くなったと言う印象が強いです。

悲しさよりも憤りの方が強く感じられるような、そんな作品でした。

30代男性

★★★★☆星4

これまでに数回見たことがあります。

はじめては小学校の授業だった記憶があり、当時はただただ「戦争って怖いな」「清太さんも節子ちゃんも可哀想」と大きな衝撃と共に悲しいお話という印象だったのをよく覚えています。

そういった印象から、金曜ロードショーなどで放送する事があっても、なんとなく気分が沈むような気がして見たいと思うことはほとんどありませんでした。

しかし、5,6年前に久しぶりに機会があって見ることがあったのですが、子どもの時抱いた印象とはまた違ったものとなりました。

冒頭の空襲シーンや母親と離れるシーンは、まだ年端も行かない子どもたちの過酷な状況に対してなんとも言い難い心の痛みを感じました。

子どもを持つ身としては、自分の気持ちに関係なく夫を戦地へ送り出さなければならなく心細い状況下で、自分の手で子どもたちを守ることが出来なかった母親の無念さなども想像してしまいとても辛くなりました。

戦争孤児が、盗みを働いて生計を立てるシーンは他のアニメやドラマでも見かけるシーンですが、『火垂るの墓』において特に気になってしまったのは、清太のプライドの高さでした。

兄妹に対する親戚連中の対応は消して暖かいものではないと思いますが、それでも意地を張って出ていってしまった清太はあまりにも軽率で子どもっぽい行動だと思ってしまいます。

小学校6年生〜中学1年生あたりの年頃であれば、現代よりも当時はもっと大人であってもよいのではないかとも思えます。

逆に、自立心の高さ故、子どもだけでも生活できる、してやる!という気持ちからの行動という表現なのでしょうか?

どちらにせよ、もっと他にやりようがあったのではないかというもどかしいと言うか納得の出来ない結末に、私は感じました。

30代女性

*映画「火垂るの墓」のみんなの口コミ評判レビューは当サイト『シネマヒッツTV』が独自で集めたコンテンツです。

引用の際は必ず当サイト『シネマヒッツTV』の引用リンクと出典の記載をお願いします。記載がない場合は法的処置も検討させていただきます。

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